「喜びからの出発」  03−01−12 
                ルカ5:33〜39
 私たちは、主イエスから見れば「花婿と一緒にいる婚礼の客」の
ような存在です。「婚礼の客」というのは、花婿と大変親しい友人です。
 私たちと主は、そのような関係であるというのです。そして、花婿と
客が喜んで過ごすように、「あなた方は、わたしと一緒に喜んで生き
なさい」と語りかけられているのです。神の御子が、自分のことをその
ように見ていてくださるというのは、驚くべきことですが、信仰生活は、
そんな関係を喜び、生きることです。

 主イエスとの、そのような深い結びつきを持つ関係は、断食や
信仰的な熱心さや人間の努力などによって生み出される関係では
ありません。人の努力で可能となる事柄はたくさんありますが、神さま
との関係では通用しないことです。どんなにがんばっても、神さまとの
深い関係を持つのにふさわしくなることはできません。神さまに対する
罪を持つからです。罪による神さまとの溝は、人の努力で埋められる
程度のものではありません。だからこそ、主イエスが私たちのところに
来てくださったのです。そして歩み寄ってきてくださったのです。
 「神と共にある」とか「主イエスと共にいる」というのは、歩み寄って
くださる主イエスの呼びかけによってしか始まりませんし、可能にも
なりません。したがって、私たちがすべきことは、歩みより呼びかけて
くださった主を喜ぶことから始まります。

 それでも、私たちは、自分が抱えている神にふさわしくない部分を
見て、婚礼の客のように見なされることを辞退したくなる時もあります。
 しかし、主は私たちの弱さをとっくに見抜いておられます。それでも
歩み寄ってくださったのです。罪を赦し、弱さを受け止める決意を
持っておられたからです。

 主が十字架にかかり死んで復活されたことで、花婿が奪い去られる
時は終わりました。罪も死も、花婿を私たちの前から奪い去ることは
できなくなりました。復活した主はおっしゃいます。
<わたしは世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる。>